世界は推しでできている

若手俳優を推しているおたくの独り言墓場

ミスマッチが交差するとき私はそこで立ちすくむ〜おたくと育児の狭間〜

ふと立ち止まって周りを見渡すと、自分のこの趣味がひどくいびつなものに感じられる瞬間がある。推しくんの現場が数カ月ぶりに途切れたいま、まさにそうなっているので、備忘録をかねて書いておく。
読んでそう楽しいものではないかもしれません。すみません。先に謝っておこう、そうしよう。

 

応援は孤独である

私の趣味は、推しくんを応援することだ。

推しと呼んでいる“人”に対してアクションを起こしている、という点で対:人の趣味ではあるけれど、私にとって推しくんはたしかに人ではあるが、対人関係に含まれるような類のそれではない。
推しくんを神聖視しているとか、そういうわけではない。あくまで、推しくんはその名前をまとって舞台の上や映像のなか、CDのなかに存在しているがゆえに“推しくん”であって、私にとってはそれ以上でもそれ以下でもない、ということ。


推しくんの名前で投稿されるSNSや、体温を感じる距離に行ける接触の現場には、沸く。すごく沸く。だけどそれは、“推しくん”を身近に感じられるテーマパークを楽しんでいるのであって、そこにいるキャラからきぐるみを剥ぎ取って素顔を見たいわけではない。

 

理性ではこんなふうに推しくんを捉えて、応援している。だけど、ふとした瞬間、とても心が冷える。血の通う人を応援しているし、視線の先にはいつも眩しくいきいきと真摯に仕事に取り組む推しくんがいる。だけど、こちらとあちらは別世界だから、暖を取るためには私自身が熱量を上げていかなくてはならない。どんな素敵なお芝居もパフォーマンスも、受け取る側のこちらの心に薪をくべて、いつでも発火オッケー!とアイドリングしておかなくては、いざ受け取ったときにちゃんと受け取れない気がしてしまう。だから備える。備えて、受け取って、心が熱くなって、舞い上がって。それを繰り返す。

 

備えるだけのパワーが湧いてこないときは、すっとどこか寂しくなってしまう。
人を応援している行為なのに、ひどく孤独だ。そう思ってしまう。
推しくんは、孤独の代償に、推しくんを応援しているからこそ見られる新しい景色をみせてくれる。おたく冥利に尽きると思う。


でも、冷静に考えてしまうと、推しくんは仕事をひとつひとつ堅実にこなしているだけであって、それに対して「新しい景色」をみせてもらったと、こちらが勝手にあれこれと夢をつめこんでいるだけだ。(安くない値段を出しているから、付加価値を無意識にくっつけてメリットを感じようとしているというのも正直否めない)

 

推しくんが、表現者としてなにかを発信して、こちら側で受け取りいろんな感情をもらう。
図式としてはとてもきれいだし、多分これが私の理想。だから、現状がベスト。ベストだと分かっているのに、逆説の接続詞をつなげてしまいそうになる自分がいやになる。ベストなんだから、これ以上は目指しようがないのに。

 

選択の末の孤独

上記は、私の強欲さから生まれる現実と感情のミスマッチなんだと思う。
もう1点、物理的にというべきか、どうしようもできないことに対して孤独感を抱えているのも、こんな風に考えてしまう要因なんだろう。


自分で好きでやっていることだから、すべて自業自得であるというのは重々承知している。家庭環境のことなので、本当に言っても仕方がないこと。でも吐き出してしまいたい。(いちおたくの家庭の事情など読みたくない!という人はこの先の魔境を覗かず、最後の見出しまで飛ぶかそっと閉じてください)

 

自分の現在の立ち位置は、いわゆるリアルなママ同士の輪とも、茶の間なおたくママ達とのスタンスとも大きく違っている。ママであり、おたく。どちらの肩書きもあるくせに、どちらにも属せていない。属せているという実感がない。


母数の多い世界ならまだしも、ここは辺境の若手俳優村。きっと探せばいるんだろうけど、まだ私は見つけられていない。ゆえに、勝手に悲劇のヒロインぶって孤独を感じている。


この立場は、現場ではもっと異色だ。少なくとも、舞台の前に若いファン層が多いコンテンツで名前を広げた推しくん界隈では、笑っちゃうほど浮く。強めのメンタルで生きながらえているけど、身だしなみにも本気で最低限しか割く時間がないし、経年劣化と出産による劣化はいかんせんどうしようもない(努力はしてはいるけども)。現場前にチャリ爆走で送迎している日もあるくらいだ。自宅でじっとしてろとどこかで悪口を言われているかもしれない。多分言われている。

 

ままとおたくの間で、どちらに属することも、理解されることもないまま、ふわふわとしている。
おたくな私は、自分のお金と都合で好きなように現場を入れられるおたくが妬ましい。
ままな私は、自分の欲望のために茶の間になれずなんとか現場に行こうとする自分が心底滑稽で恥ずかしい。

 

狭間の生き物には苦しみが伴う。チケットが急遽紙くずになるリスクは何倍も抱えている。そこをクリアして無事現場に行っても、本当にこれで良かったのかとひとり葛藤する。

自分で決めたことだから、責任は私にしかない。基本的には頭空っぽでおたくをしているが、本当にふと、魔がさすとこうなってしまう。これだけ欲張りに、思い描く人生をまっとうしているのに。最近チケ運がないのは、こういうところがだめなのかもしれない。

 

おわりは「やっぱり推しくんが好き」

私と推しくんの関係性について、そして自分の環境について、ミスマッチとミスマッチが重なり合って、たまにしんどくなる。しんどいけど、「推しくん好き!応援したい!」という解に収束するので、やっぱり推しと呼べる存在がいるってすごいことだと思う。

 

だから、結婚とか出産に限らず、環境の変化とかでおたく続けられるかな?って思うことがあっても、私は限界まで挑戦することをおすすめする。老婆心、老婆心(ファッションばばあは本当にいい加減にしてくれ、がちなばばあに失礼だよ、25でばばあとか鼻で笑うのでやめて頂きたい)

 

依存ではなく生きがいとして、おたくを続けるという選択肢は、自分の首を締めてくることもあるけど、それ以上に私は生きている、生かされている(テニミュFinalのリョーマのあの曲をBGMに流してください)

 

いずれ破綻するであろう現状のおたくライフ。もうだめだ!続けられない!そう思う瞬間まで、悔いがないように推しくんを応援するために、これからも現場に行きたい。さあ、そろそろ心にくべる薪をひろいにいこうかな。推しくん、ツイートツイートォォ!!!